
皆さん、こんにちは。 今日も前回同様、厠での風流な言葉についての話じゃ。 前々回は日本の櫻と、そろそろ旬の松茸から話を始めたのじゃが どうも西洋かぶれのワシの悪いところで、いきなり遠くの方に話題を飛ばしすぎてしまったんで今一度、近隣の東亞細亞の國々に目を向けてみることにしようかのう。 上座部仏教は日本の葬式仏教とは、だいぶ趣が異なっておるぞ。 椰子の葉が風にそよぎ、遠くで寺院の鐘がひとつ、静かに鳴る。 🎼ぐぉ~~ん 黄金の仏塔に、南国の陽が照りつける昼下がり―― 本文 ตอนนี้…
壱:食卓の赤と白、画面の向こうのプロンプト 昭和の食卓の上で赤と白の小瓶がカチャリと音を立てておった。昭和の夕暮れ、ワシの父親は刺身、冷や奴、お漬物にも、果ては味噌汁にまで白い結晶やら醤油を迷いなく振りかけておった。 昔からの家庭の味、「素材本来の味」を台無しにされた母親の深いため息をものともせずに、父親はグルタミン酸ナトリウムという名の「魔法の粉」を直接舌に載せる快楽に酔い痴れていたのだ。 それはさておき、ワシが何より参ったのは、当時まだ珍しかったトンカツを母親が作ってくれた時じゃ。それにさえも父親は味の素と醤油をかけ、一口食べた後、さすがに口に合わなかったらしく、 「ほれ、食え!」 とワシに押し付けて来たのじゃ。さすがにワシもこれは食いたくなかったので拒否すると、 「食べ物を無駄にするんじゃない!」 と、訳の判らんお説教を食らって泣きそうになったことを覚えておる。 今なら、逆に、「食べ物を粗末にしてるのは誰の方だよ!」みたいなカウンターを返せたのかもしれんが、当時ガキのワシは、そこまで頭回らなかったのは生姜無い、もとい、しょうが無いのじゃが...... 何にせよ、あれは単なる調味料ではなく、高度経済成長期における「手軽な豊かさ」という、コマーシャリズムに踊らされ始めた祝祭だったのじゃろう。…
画像中央の尼さんは、”慈恵観尼(じぇみに)”様だそうです。 ー ⚀ ー 壱 五稜郭の崩壊と「六」の召喚 人間という生き物は、どうしてこうも「五」という数字に全方位的な完璧さを重ねたがるのだろうか。 軍事要塞の極致とされる米国防総省、通称「ペンタゴン」。あるいは、幕末の函館に築かれた死角なき星型要塞「五稜郭」。 どれも人間の理性が描いた幾何学の極致であり、あらゆる方角からの侵略を跳ね返すための完璧な防衛陣形として設計された。 先日、人工知能(AI)に「人間とAIの関わり」をどのように構造化すべきか議論を挑んだ際、画面の向こうの知的で従順な知能は、実に手際よく「AI利用の五大レイヤー」なるものを提示してきた。 その整然とした分類は、まるで現代の五稜郭を見るかのように無傷で、非の打ち所がないように思えた。論文やビジネスプレゼンに仕立て上げるなら、満点の出来栄えだろう。 しかし、私の胸にはどうにも収まりの悪い手触り感が残った。知的には正しいが、そこには生身の人間が持つ「欲」や「甘え」、あるいは「自尊心」の臭いがきれいに削ぎ落とされている。…