子供向けAI その1(日本文化・ネット文化・AIの交差点からの私的考察)

この連載記事は、老い先短い自分の意識整理のためにまとめておるものじゃ。
と言っても、遺書ではないぞ。あくまでも、落書きじゃ。
1. 問題意識
1-1. ワシ自身の立場
自己紹介ページにも書いておるが、ワシは昭和30年代前半生まれのジジイじゃ。
餓鬼の頃は、田舎暮らしだったので、「おかあさんといっしょ」や「ひょっこりひょうたん島」、「サンダーバード」や「鉄腕アトム」をみながらボーイスカウト(カブスカウト)で遊びながら、アマチュア無線などもはじめ他影響でIT関係で食いつないできたが、もう年なんで、引退しておる。
学生時代は、戦後の西欧化の浪をうけたからかどうか判らんが、普通の反抗期とは別に、先公、もとい、先生に逆らってばかりおったせいか、現代国語でも赤点をくらうようなひねくれもんじゃった。
とはいえ、なんとか務め終え、今はカミサンと余生を楽しんでおるのじゃ。
ただ、餓鬼のころ野山を駆けまくった記憶が頭に残っておるせいか、退職後はもっぱら庭いじりやら家庭菜園で野菜を自給するなど細々と暮らしておる。
最近では、AIというものが普及してきており、ワシも少しずつ勉強しながら使っておる。これは、確かに注意は必要じゃがとても便利な物なので、それを否定しようとは思わん。
ただ、頼りすぎんように心がけておる。いわゆる、デジタルデトックスというやつじゃな。ワシは、勝手に、「二値化毒消し」などと呼んでおるがのう。(笑)
聞くところによれば、アメリカにはバテレンの流れをくむアーミッシュという、やはり文明に自制的な考え方の人も居るらしいが、彼らはもっと意図的に文明を遠ざけておるらしく、道具という側面での考え方はワシとは大きく違っておるようじゃ。(彼らを否定するつもりはないぞ。誤解せんように。)
1-2. ワシが見てきた子供文化
ワシが子供だった時代には、
・家庭・学校・地域社会・テレビ・児童向け書籍
などが子供を取り巻く環境として存在しておった。
両親だけでなく、祖父母とも頻繁に接していたり、3世代、4世代同居の家族も珍しくなかったぞ。
学校でも運動会といえば一家総出で駆けつけたりしておった。
テレビもNHKだけでなく、民放でもママとあそぼう!ピンポンパンみたいなものもあったと聞いておる。
英米のテレビでも、セサミストリートやら、トムとジェリーもあったのう。
あと、親はあまり喜ばんかったが、ポパイなんちゅうのもあったのう。
まぁ、ワシはあれを見んでも野菜はスキじゃったがの。
あとは、イギリスの機関車トーマスやらテレタビーズなんていうのもあったのう。
子供向けの本もそれなりに充実しておった。
日本のものも多かったが、英米の「ドリトル先生」、「おさるのジョージ」、「ちいさいおうち」、「田舎のネズミと都会のネズミ」、「最後の一葉」など、数え上げたらキリがない。
しかし振り返ると、それらは子供に
・社会性 ・情緒 ・生活習慣 ・想像力 ・他者との関わり方
などを伝える機能を担っていたようにも思える。
もちろん、当時の子供文化が理想だったと言うつもりはない。
ワシも当時は色々不満を抱えておったしのう。
ちなみに日本の「おしん」はアジア圏や中東圏では爆発的な人気を得たようじゃが、西欧圏ではそれほどでもなかったと聞く。
同様に、日本の人はほとんど知らんじゃろうが、アメリカには、「ヴェジテールズ(VeggieTales)」という、聖書に絡んだ教育アニメもあったのじゃ。
参考:ヴェジテールズ日本語版
どうやら、人が子供に何を伝えたいと思うかは、文化によって少しずつ違うようなのじゃ。
ただ、最近のワシの耳には、こうした子供向け文化の話が昔ほど入ってこない。
おもちゃやさんも専門店はなくなり、家電店や大型ディスカウント店の一角などに集約されつつあると聞く。
単にワシが年を取っただけなのか、それとも子供を取り巻く環境そのものが変化しているのか。
そのあたりが、本稿を書こうと思った最初のきっかけなのじゃ。
1-3. 現代の環境変化
ワシが悪ガキだった頃と比べると、最近の子供を取り巻く環境はずいぶん変わったように思える。
昔は家庭や学校、地域社会やテレビなどが主な情報源だった。
一番大きな違いは、やはりインターネットの普及じゃろう。
昔は、本を読むにも、テレビを見るにも、それなりの制約があった。
情報源そのものも限られており、子供が触れられる世界は、家庭や学校、地域社会、テレビや本などを通じて少しずつ広がっていったものじゃ。
それもほとんど一方通行で、ガキができることと言えば、ラジオ番組に音楽をリクエストするために電話をかけたり、深夜放送に手紙を送ることぐらいじゃ。

ところが今では、スマートフォン一つあればだれでも世界中の情報へアクセスできる。
動画配信サービスやSNSを通じて、子供たちは幼い頃から世界規模の情報空間と接することになる。
これは良い面もある。
ワシ自身、AIを使うようになってから、海外の文化や宗教、教育観について、それまで知らなかったことを多く学ぶことができた。
例えば、日本ではほとんど知られておらん「VeggieTales」のような子供向け作品の存在を知ったのも、AIを使って調べてからのことじゃ。
ちなみに、ワシが調べた範囲では、子供向けコンテンツを継続的に世界へ供給する力を持っていたのは、日本や英米圏が中心だったように思える。
もちろん、グリム童話やイソップ童話のような英米以外のコンテンツも存在しているが、現実に子供向けのコンテンツを量産し続けているのは、日本(NHK)や、英国(BBC)、米国(PBS)のような、国家レベルの支援体制があり、また、そのマーケットが自国圏内に存在する日本や英米圏だったように思えるのじゃ。
もちろん近年は、
・韓国 ・中国 ・そしてネット文化圏そのもの
の発信力も急速に大きくなっておる。これも、それぞれの国の経済成長やネット環境の発展とも関係しているのかもしれん。とは言え、ある意味これも自然な時代の変化なのじゃろう。ワシはそれも否定するつもりはない。
但し、情報量が増えることと、物事の背景を理解できることは同じではないはずじゃ。
例えば、世界には様々な社会のあり方が存在する。
王制や天皇制のような象徴的な存在を重視する社会もあれば、そうではない社会もある。
家庭や地域共同体を重んじる文化もあれば、個人の自立や競争を重んじる文化もある。
また、自国の利益を優先する考え方もあれば、共存共栄を重視する考え方もある。
今ここで、どちらが絶対に正しいなどという話をつもりはない。
現実の社会はその両方の要素を持ちながら動いておるし、戦後を生きてきたワシらの世代など、モロにその狭間の泥沼にハマってきたようなものじゃからな。
じゃが、ワシは少し気になることがある。
それは、子供たちがこうした違いを理解する前に、一方的な情報や主張だけを大量に受け取るようになってはいないか、ということじゃ。
歴史や文化の背景を知らぬままでは、異なる価値観を比較したり、自分なりに判断したりすることは難しい。
日本の教育には色々な問題もある。
ワシ自身、先生方のいうことを鵜呑みにせず、随分やり合った口じゃ。
じゃが、その一方で、長い生活を経て、徐々に
・他者への配慮 ・地域との関わり ・ 共に生きるという感覚
といったものも、少しは学んできたように思う。(まだまだかもしれんが...)
それらが日本固有のものかどうかは分からん。
しかし、少なくともワシは、今にしてみてばそれなりに価値のあるものだったのかも?と思っておる。
そこで一つの疑問が生まれるのじゃ。
これからAIやネット文化圏の中で育つ子供たちは、
・共感 ・自制 ・他者との共存 ・歴史理解 ・文化理解
といったものを、いったいどこで学ぶことになるのじゃろうか。
そして、これまで家庭や学校や地域社会が担っていた役割は、今後も十分に機能し続けるのじゃろうか。
令和となった現在では、親世代ですらあやふやな知識しか持っていないのではなかろうか?
例えば身内が死んだ時、戦前・昭和初期なら近所で助け合ったり、身内の中の経験者に教えを請うたりしたものじゃが、今はどうすればよいかもわからず右往左往し、葬儀社の言いなりになっておるのが関の山ではないじゃろうか。
この疑問こそが、本稿を書く直接のきっかけなのじゃ。
1-4. ワシの疑問
ここでワシは、ひとつ大きな疑問を抱かざるを得んのじゃ。
現代の子供たちは、情報という大海原を手に入れた一方で、いったい何を得て、何を密かに失いつつあるのだろうか?
かつては、家庭や学校、地域社会の骨組み、あるいはテレビや童話といった「共通の物語」が、子供たちに「社会性」「情緒」「自制」「他者との間合い」を不器用ながらも教えていた。 もちろん、それは決して完璧なシステムではなかった。
また、戦後の急激な価値観の変化(全体主義から個人主義へ、あるいは女性の社会進出など)は、昭和中期までの世代にとっては個人だけでなく国全体としても手探り状態であったのじゃ。
結果、ワシのように先生に噛みつくようなひねくれ者を生み出す隙間も広がったりはしたが、少なくとも「人間関係の摩擦」を直接肌で学ぶ生きた装置としては機能していたはずじゃ。
それらが今や、スマートフォンやSNS、動画配信といったアルゴリズム主導の巨大なネット空間へと急速に置き換わっている。
文明生活に慣れすぎた我々は、子供だけでなく親さえも昔からの知恵や肌感覚を忘れてしまっておる。
畑でミミズを見ても気持ち悪いとしか言えなかったり、虫を触ることもできず、魚をさばけない親など当たり前。最近では包丁さえまともに使えず、キッチンハサミで済ませる人間が増えていると聞く。
ワシの祖母などは、飼っている鶏を締めて、ご馳走してくれたのじゃ。
そこまで古くなくても、ひよこを可愛がったり、メダカを取って来て育てたりしながら、その死に直面することで生命の尊さや不可逆性を知る機会は確実に減っておる。
『たまごっち』のようなおもちゃやゲーム画面上で擬似体験はできても、リセットボタンの利かない「本当の辛さや命の重み」は、そんなものでは到底理解できんのじゃ。果たして、従来の継承装置が果たしてきた「目に見えぬ情操教育」の役割は、現代においてどのように変容しているのだろうか?
そして、その変化は単なる「時代の進化(デジタル化)」として片付けてよいものなのか、あるいは人間形成の根格を揺るがす構造的な欠損を生んでいるのではないだろうか?
1-5. 本稿の問い
- 誤解しないでほしいが、本稿は安易に「昔は良かった」と懐古趣味に浸ったり、「情操教育特化のAIを作ればすべて解決する」といった極論(シルバーバレット)を提示することを目的とはしておらん。
そんな単純な答えで済むなら、ワシのようなジジイがわざわざ長文をしたためる必要などないからじゃ。
本稿の目的は、以下の問いを通じて、現代の子供文化と人間形成の立ち位置を構造的に解き明かすことにある。
第一に、子供を取り巻く環境はどのように変容し、何が解体されたのか。
第二に、家庭・学校・地域・メディアという「伝統的な継承装置」は、どのような文化・道徳観を次世代へ手渡してきたのか。
第三に、無国籍で無制限な「ネット文化圏」は、子供の情緒や価値観に何をもたらしているのか。
第四に、急速に広がる「AI技術」は、人間を代替する脅威となるのか、あるいは失われた継承装置を補完する新たな「文化の器」になり得るのか。
これらを、日本と西欧の比較文化史、あるいは大衆文化や複製文化(絵巻・浮世絵から漫画・アニメ・AIへ)の文脈を交えながら、じっくりと整理・考察していくこととしたい。
